今日はこの方の話をしましょう。
私の祖父 高杉 寿。(タカスギ ヒサシ)
この人が私にタップダンスを教えてくれた人でした。
今日は祖父と私の歩んだ道についてです。
私が初めてタップシューズを履いたのは5歳。
そして祖父は65歳。
今思えば、よくぞまぁ
話を理解しているのかも分からない子供に
基礎からしっかり教えてくれたなぁ・・・
と5歳児を育てている今、心から感謝しています。
祖父は私にタップダンス以外にバレエ、ジャズ、アクロバット
様々な振り付けを付けてくれた訳ですが
当時の祖父は既に70歳手前。
現役は既に引退しており、私が物心つく頃には足も巧みに動くわけでもなく
TAPの音はかすれてよく分からない。
今考えると日々の公演とトレーニングで身体はボロボロだったのでしょう。
アクロバットに関しては、教えるのはいつも口ばかり。
さも簡単そうに「ポーンポーンってやりゃいいんだ」と。
その後は決まって必ず「出来るよ」と笑いながら言いました。
当時は今のようにインターネットやyoutubeで検索という訳もいかず
写真も映像もない状態で、手がかりは祖父の「ポーンポーン」・・・
よくなかったと思う事は
先生といってもおじいちゃんと孫
この関係性がよくありませんでした。
あまえが出るのです。
レッスン中にベビースターラーメンを食べていたり
自由気まま好き勝手にやらせてもらっていました 笑
タップシューズは忘れてもベビースターラーメンは
ちゃんと持っていくんですから・・・
それでも祖父は怒る事もなく、いつも笑っていました。
甘える気持ちはさらにエスカレートしていくのですが
何をしても怒らないで笑っている祖父。
しまいには笑っている事にすら腹を立てるようになり・・・
どっかり、わがまま孫です。
毎回、自宅に帰ると「最高だった」と褒められる。
いつしか「最高」も当たり前のものとなってしまいました。
井の中の蛙とも知らず。
でも、ちょっとだけ知っていたのです。
だから他の世界を知るのが怖かったのでしょう。
それが小学生の頃の自分でしたね。
でも「最高」の魔法が終わる時がきました。
中学生になり、祖父母と一緒に見に行ったタップダンス協会のイベント。
他のタップダンス教室が沢山出演していました。
そこで初めて出会ったのが火口ダンススタジオでした。
「FUNK A STEP」というタップダンスを原型にした新たなスタイル。
私が知っている従来のタップダンスとは比べ物にならない位
斬新な世界が目の前に飛び込んできました。
自分が一番なんかじゃなかった事よりも
このスタイルを自分に取り入れたくて取り入れたくて。
今思えばこれが旅立ちの時だったのかもしれません。
私が火口スタジオでレッスンを受けたいと話した時
祖父は、いったいどんな気持ちだったのだろう。
戦後の混乱期にも関わらず、自分が「良い」と思ったも世界に飛び込んだ祖父です。
きっと情熱を止められない事も分かったのではないでしょうか。
優しく私を送り出してくれました。
天まで伸びていた鼻を根元からポッキリと折られましたが
そこから特訓の日々が始まり新たな一歩を踏み出したのです。
あれから何年が過ぎたでしょうか。
2年前に祖父が他界した時のこと。
斎場に祖父の最後に使用していたタップシューズと
祖父の現役時代の写真を飾ろうと出てきた写真を見て
もうびっくり。
初めて頭のあがらない存在だった事に気づかされました。
ここからは、祖父の現役時代の写真を掲載したいと思います。
その時の内容によって人数編成は違うみたいなのですが
当時はスピードダズラーズというチーム名で活動していた
ようです。
何年前のものなのか・・・
戦後というざっくりとした事しか分からないけれど。
もっとちゃんと本人から色んな話を聞いておけばよかった。
覚えている話としては、祖父がタップダンスを初めて
習ったのは小学校5年生の時だったそうです。
もちろんお月謝は子供が払える額ではなかった為
父親の大切にしていた書物を売って、こっそり月謝にかえていたとか。
破天荒っぷりは子供の頃からだったんでしょうか
現役時代は血が濃くて大変だったと昔から祖父を知る人は
口をそろえて話していました。
私が知っているのは優しすぎるおじいちゃんだったので
どうも一致しなかったのですが、
確かにこうやって写真を見ていると少しクレイジーな匂いがしますよね
「ぽーん」はこれだったのでしょうか・・・
ちなみに、中段で松明を扱っているダンサーが私の祖母。
祖父には祖母の事を出来ない生徒だったと聞かされていました
一緒に仕事をしているメンバーだったんですね。
本人が亡くなって何年も経ってから知りました。
また「ぽーん」だ。
とにかく恐かったらしく「出来ない」という事だけは皆
口が裂けても言えない空気だったそうです
実は昨年のスタジオダルクとのコラボ企画の時
はんにゃのお面が使いたくて、、、
そういえば祖父の使用していたはんにゃがある!!と
付けてみるもなんとも視界が狭いこと。
一見普通そうに見えますがこのお面。
実は能のお面で目の穴は2cmも開いていないのです。
2cm。お分かりでしょうか?
豆まきの時期に豆のおまけついてくる紙のお面の穴です。
しかもこれは木を彫って作られている為とても重たい。
泣く泣く諦めたのですが、これでアクロバットをしていた
スピードダズラーズは超人の集いだったのかと。
私がラスベガスに行ってきて土産話をしていても
「昔やっていた事
だ」と話がいつの間にか
すり替わりまたも「ポーンポーン」・・・
お年寄りは昔話ばかりすると思っていましたが、
本当の話をしていただけなんですよね。
こちらは客船でしょうか・・・
なぜ祖父のポップコーンの発音が「パップコーン」だったのかが分かりました。
当時は笑って訂正していた私でした・・・
戦後の日本には沢山のアメリカ人がいて、その中に飛び込んで
踊っていたからなんですね。
パップコーン。大正解ですね。
あまりに格好良すぎる数々。
誰にも負けたくなくて、どれも力がみなぎっいて
いつだって自分を一番だと思っている。
その気持ちが写真にしっかり映ってる。
私がクラシックにこだわる要因はここなのかもしれない。
私は一人だけで出来ている訳じゃない。
私の前にはちゃんと歴史があって、こうしてレールが
繋がっていくことは本当に素敵な人生だと思う。
そして今、小さなタップダンサー3代目が
ステージで踊り初めているのだから。